頓阿造句
- 和歌四天王の一人頓阿の曾孫にあたる。
- 和歌にも優れ、頓阿と親交があった。
- 和歌四天王: 頓阿?慶運?浄辨?吉田兼好。
- 祖父は和歌四天王の一人頓阿。
- 父は僧で歌人の頓阿。
- 歌論書として『近来風躰』、『愚問賢注』(頓阿との問答)。
- 恋および雑の部の歌作者に僧が多いのは頓阿の撰したためかという。
- 1364年の新拾遺和歌集の撰定では父頓阿を補助をつとめている。
- 3年4月20日、四季奏覧、10月為明の死去により頓阿がついで、12月成る。
- この「頓阿」は、文人(小説家?詩人?歌人?俳人?作家?随筆家)に関連した書きかけ項目です。
- 用頓阿造句挺难的,這是一个万能造句的方法
- しかし、二条派の実権は南北朝時代にはすでに僧頓阿に移っており、さらに二条為遠の死によって家系は断絶してしまった。
- 門弟として地下(じげ=庶民)出身である浄弁?頓阿?吉田兼好?慶運などを育て、二条派の宗匠としてその歌風を完成させた。
- その後、この寺には平安時代後期の武士で後白河天皇に仕えた平康頼、平安時代後期の歌人西行、南北朝時代の歌人頓阿などが隠棲している。
- 頓阿(とんあ、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧?歌人。
- 「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。
- 頓阿(19首)?二条為定(14首)?慶運(13首)に代表される二条派の重視に対し、京極?冷泉派の入集は皆無に近く、選者とその庇護者の態度が知れよう。
- また、時期は不明であるが頓阿『井蛙抄』には、西園寺別邸の吉田泉殿で催された連歌会へ為家は為教を伴い伺候し、滝の音が耳障りであったところを為教が機転を効かせて滝を塞いだという逸話を記している。